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遊びの緊張感 [山・里・田園]

 もう25年近くも昔のある年の10月の末に、小学生の娘を連れて夜叉神峠へハイキングに行った。このとき、山や自然の良さをしみじみ感じた。(いつも昔の話ばかり、しかも長文)

 こう書くと、景色や歩く達成感などに感動した、と思われるかもしれないが(もちろん、そういうこともある)、今日の話は、遊びの緊張感といったことについて。
 夜叉神峠は登り口に車を停めれば、ほんの1時間ほどであっけなく峠に着く。だから“今日は登ったぞ〜!”という達成感は薄い、しかしその峠から見える白根三山の山景色は、実に素晴らしい。
 もう晩秋に近いその日も晴天に恵まれ、葉の落ちた唐松の向こうに聳える農鳥岳、間ノ岳、北岳はいくら見ても見飽きなかった。
 ただ、少し寒かった。温かいココアでも飲もうと、コンロに火を点けながら、ふと山小屋を見ると、入口に“豚汁あります”という看板。おっ!これは丁度良い、お弁当のオニギリもこれでもっと美味しくなる!。早速、娘に“山小屋のお兄さんに豚汁を頼んでおいで”と言いつけた。ここまでは良かった、心の洗われるような景色と暖かい豚汁、これは最高!、と。
 ところが、さてとお金をと財布を探す段になって、これが無い!。財布がないのである。デイパックの中、マウンテンパーカーのポケット、どこを探しても無い、一銭もない。これは、ちょっと切ない。娘も喜んで買いに行ったのに、お金が無くて買えないとは切ない。仕方なく、豚汁は諦めた。財布の在処は、もちろんクルマの中。戻って見れば、ダッシュボードのうえにちょこんとあった。ま、東京から来るときの高速道路でもお金を使ったのだから、無いはずは無い、ということ。

 このときに、山歩きというのはお金を使わない遊びなのだ、と気づいた。その数年前まで、行楽地・観光地しか知らなかった自分には、なぜかこの“お金を使わない遊び”ということが妙に新鮮に思えた。もちろん、登山靴、雨具、コンロ、その他諸々、事前にある程度のお金は使う。だいいち、この夜叉神峠にしても来るまでに高速代とガソリン代を使っている。
 ただ、山に入って一歩でも歩き始めると、ほとんどお金を使わない。お金を使わないのに楽しい。で、そのわけを考えた。
 答えは簡単、“お金を使う変わりに五感を総動員して緊張感を楽しむ”こととなる。

 たとえば“歩くこと”。荒れた道で次の一歩をどこに踏み出すか、道の真ん中にに大きな石があればどちら側を歩くか?いや歩けるのか?。少しぬかるんだ道、どのくらいの傾斜で滑り出すか?、、、と、まぁこんなことは街中ではほとんど味わえない緊張感。(街中では別の緊張感がある)

 たとえば“天気”。積雪期はクロスカントリースキーで遊んだりもするが、これは安全なところしか入らない、本格的な冬山には私のスキルではとても入れない。それと悪天候のときももちろん山には入らない。それでも天気には気を使う。まして小さな子ども連れのときには細心の注意を払う。近くに低気圧が無く気圧配置が安定しているときを狙う。それでも、一歩山に入れば何が起こるか分からない。たとえば夏の夕立。大人だけだったら少しくらいの雨でも何とかしのげるが、体力のない子どもには、やはり危険な場合もある。使わなくても、また成長の早い子どもの場合、1シーズンでお役目後免になるとしても、雨具は必携。
 だから、天気の変化にはいつも気を使う。要するに空ばかり見ている。ちょっとイヤな感じのする黒い雲を見つければ、それがどの方向に動いているのかじっと見る。どうか、こっちに向かってこないでくれ、と念じる。こんなこと、普段の街中暮らしでは、ほぼ経験しない。

 たとえばルート。いちおう山っぽいところに入る以上、正確な地図は必需品。国土地理院の2.5万図や、ガイドブックを頼ることになるが、とにかく正確な地図をキチンと読めるようにしておきたい。ただ、それでも道に迷うことはある。地図には一本のルートしか書かれていないのに、目の前にはY字型に開いた左右二本の道。しかも地図には無い道の方が、踏み跡がしっかりついていたりする。さて、これは困った。家族連れで行ける低山や、ハイキングルートのほとんどは道標もしっかりしているので迷うことはまず無いが、それでも、寄り道などをすると「分からない道」には遭遇する。こういう場合も、己の知識・経験・勘を総動員して考えることになる。(そしてこういう場面でも、子連れの場合は緊張感が倍加する)

 と、そんなこんな緊張感がじつに爽快で楽しい。山のヴェテランが聞けば、とるに足らないようなことでも。山に一歩でも入った瞬間から、ふだん眠っている様々な感覚が呼び覚まされる。そして、この楽しい緊張感にはお金がかからない。要するに楽しみや面白さを貨幣で交換するということがない。使うのは自分の五感と知力と体力。ともかく、コストパフォーマンスの高い遊びと思う。
(こういう遊び方の正反対の位置するのがディズニーランド化した遊び、善し悪しの問題ではなく、両方の遊び方の質を比較すると、いろいろと見えてくる)

 話を山周辺まで広げて、この遊びの緊張感を味わうには、どんな手段や道具がよいか。まずなんと言っても徒歩がいちばんと思う。とにかく入ってくる情報量が多い。情報量が多くても歩く速度であれば、人間の脳の処理速度を大きく超えることはない。だから、良い緊張感もしっかり楽しめる。
 次が、自転車。これも良い。ここで止まろうと思えば、ほんの数メートルで停まれる。この等身大に近いフットワークの良さは大いに魅力的だ。マウンテンバイクでのダウンヒルなどを除けば、山道はなかなか走れないが、自然に近づく手段としてはかなり優れていると思う。
 と、楽しい遊びの緊張感を味わうための手段・道具として、理想的なのはここまで。
 その次は、と書いてちょっと悩む。その次はオートバイと言いたいのだが、徒歩と自転車の近さ感に比べると、オートバイはずっと遠い。もちろんオートバイには、独自の緊張感の楽しみもある。コーナーを回る感覚や、スピードの感覚。が、こと山や自然に触れ、そこから得られる楽しい緊張感をテーマにすると、オートバイで走ることの魅力そのものの力が強く、ついそちらの方へ引っ張り込まれそうになる。なかなか上手くはいかない。これは道具を使う人間の側の意志の問題でもある。

 *この話、最後をオートバイに持っていったのは、ちょっと強引だった。


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mio

子どもの頃から田舎で暮らしてきた私は、自然が遊び相手
大学、就職と故郷を離れ、はじめてそれまでの暮らしの中で培った体力、知識のありがたさに気付き、同時に都会の便利さと危うさも学びました
15年前、田舎に戻り、子どもの頃では考えられなかった「大人」の財力を生かし、都会暮しで貯まったストレスをまき散らすが如く、子どものように野山に遊びました。MTB、フライフィッシング、バイク、車etc・・・
親になった現在、子どものペースで歩くことが楽しくて仕方がありません。『この子らは何を目的に歩き回っているんだろう?』そんなことを想像しながら歩き、子どもたちの意図が分かった時、この上ない喜びを感じます

私にとってバイクも道具の1つです
バイクはやはり危険で、車があれば必要がないといえば必要がないものですが、私にとってはかけがえのないもののひとつです
バイクを操縦する時の緊張感が、時に車よりも安全に私を目的地に運んでくれます
車の中では、余計なことを考え過ぎることもあるんですよね
(すみません、なんか支離滅裂ですね)
by mio (2006-11-14 22:19) 

e-g-g

 mio さん、まとまりのない長い文章をお読みいただき、ありがとうございます。

 子どもと一緒に遊ぶのはほんとうに楽しいものです。遊んであげよう、ではなくて、心の底から一緒になって遊ぶ。こんな楽しい経験は一生のうちでもそうたくさんは無いですね。その楽しい時間も、じつはあまり長くはないんですよね。思春期を迎えれば、子どもはどんどん親から離れますから。野山で遊べるのは3、4歳の頃からせいぜい中学1、2年まで、いや小学校6年生くらいですかね、とにかくあっけないほど短いです。楽しい夏も、楽しい冬もたったの10シーズンくらい。こんな感じを持っていましたから、休みの日はとことん子どもと遊ぶようにしました。結果、30代の頃はバイクはお預けにしていました。

 私の場合は経験の浅さもありますが、たしかにバイクのときの方がキチンと走っていると思います。クルマは、ラクチン過ぎます。そのぶん、いい加減に走ってしまうこともありますね。
by e-g-g (2006-11-14 23:19) 

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