彼岸花、季節外れの。 [水彩画とスケッチ]
飼い猫のナナが亡くなったころに描いていた一枚。
真っ赤な花を、さてどう描けば良いのか、
思案している真っ最中に息を引き取った。
それから、もうふた月が過ぎた。
ネコの死がショックで描けなかった、というわけではない。
ただ、その後いろいろあって、なんとなく遠ざかってしまったのだ。
不思議なもので、いちど絵から離れてしまうと、
スケッチ一枚を描くのも億劫になる。
要するにさぼり癖というヤツだ。イケナイ イケナイ
この彼岸花を見つけたのは、鎌倉の若宮大路をほんの少し入った住宅地。
そのとき撮ったスナップ写真には9月28日とある。
庭の片隅は、まだ夏の名残の強い陽差しを受けて明暗のコントラストが強い。
花は、その少し暗い背景に、まるで赤い絵の具を流し込んだように浮かび上がっていた。
それにしても、時間を空けすぎてしまった。
そもそも、この光景を目にしたときの高揚感が何だったのか?
その原初の感覚が薄れてしまう。
もちろん、なんでもかんでも一気に描けばよい、というわけでもない。
ときには少し間を置き、醒めた目で自分の絵を見ることも大切と思う。
が、あまり間を開けすぎると良いことはない、今回の反省。
花を描くのは難しいが、
この花にこんなに手こずるとは、まだまだ修行が足りぬ。
『彼岸花』
F4(24.2×34cm)ホワイトワトソン
『大坊珈琲店』の閉店。 [日々の記録]
青山通りに面した小さな四階建てのビル、
『大坊珈琲店』がその二階に店を開いたのは1975年。
この12月で閉まると知り、慌てて調べその年を知った。
夕暮れ時、背中に欅並木のイルミネーションの光を受けながら、
表参道の交差点、角の交番前の信号が青に変わるのを待つ。
道の反対側、古ぼけたビルの一階にあるはずの置き看板を目で探しながら。
年内で店じまいと聞いていたので、はたしてまだ間に合うか、
ちょっと心配したが、明かりを灯した看板を見つけほっとする。
この店に初めて足を運んだのはいつだったろう?
たぶん1980年ころ、いやもう少し後だったかもしれない、
いずれにしても三十年も昔のことだ。
階段を上りながら目に映るコンクリートの壁は、
何度もペンキが塗り重ねられ、当時すでに古ぼけた印象だったが、
それから長い時を経た今も、その表情は変わらない。
まるで、よれたコートをまとった中年男のような雰囲気。
狭い階段を上がって木の扉を押す。
そのときどきに抱えていた仕事やら、
熱中して読んでいた本の背表紙やら、
脳内を駆け巡るベートーヴェン、モーツァルトやら、
(実は店内ではいつもジャズが流れているのではあるが)
そんな諸々の、いったい幾つを抱えてこの扉を押したのだろう。
もちろん、それらの断片を忘れてしまったわけではない。
遠藤周作も丸谷才一も辻邦生も村上春樹も、
ベートーヴェンのソナタもマーラーもブラームスも、
それらが、その直前に青山通りを歩いていたときよりも先鋭さを増し、
より強く意識の中に居座る。
さほど広くはない「大坊」の空気が起こす化学反応だ。
でも、ネルドリップにお湯を注ぐマスターの手さばき、
立ちのぼるブレンドコーヒーの香り、
ずっと変わらぬメニュー、
そんなことやものが、それらの一切を跳び越えて体に染みこみはじめる。
そう、たった三秒で珈琲の罠に落ち込んでいくのだ。
その扉を押した瞬間から、
そこが目映く煌めくような青山の地であることも、
訪れたこの日、それが2013年の師走の17日であることも、
一瞬のうちにどこかへ飛んでいってしまう。
そんな珈琲店が昔はたくさんあった、というわけでもない。
もちろん今よりは、コーヒーの味わい深さを楽しめる店は多かったと思う。
それでも、一瞬にして珈琲の化学的触媒反応に誘う店はそう多くはないだろう。
客側から見て少し手前に下がったカウンターのわずかな傾き、
これはたぶん三十年前とほとんど変わらない。
小さな椅子に腰を下ろし、いつも頼むのはメニューの三番。
いま思うと、もっと他の珈琲も頂けば良かったとは思うが、
淹れてもらうのはいつもブレンドコーヒーの「三番」だった。
コク、香り、雑味の無さ、そして程良い温度、
これがブレンドコーヒー、日本のブレンドコーヒーなのだ、と思ってしまう。
結局この日も三番を頼んだ。
カップの珈琲があとわずかになったころ、
少し離れた席から老紳士が立ち上がり、
じゃ、またね!と店を出て行った。
濃紺のベースボールキャップ、そこから盛大にはみ出す長い髪、
そしてサンタクロースほどではないけれど、
それでも十分に派手な赤いアウタージャケット。
横顔を拝見して、指揮者のあの人と直ぐに分かった。
(100%の自信が無かったので、まったくミーハーではあるが
帰り際にお店の人に訊ねてみる。
“えぇ、○○○さんです。ときどきいらっしゃいます”、と聞き何故か安心)
こんな風に書くと、ずいぶんと通い詰めた印象を持たれそうだが、
実は、そんなに頻繁に訪れたわけではない。
多かったときでも、年に3~4回ぐらいと思う。
それもこの十年くらいは片手で数えられるくらいしか訪れていない。
そんな気まぐれ客だから、知らないうちに店をたたんでしまっても、
たぶん気付かなかっただろう。
SILENTさんのブログ記事を拝見するまで、知らなかったのだから。
今月の23日を最後に店は閉まる。
理由は古くなったビルの建て替えとのこと。
その一階は、すでに工事用のパネルで覆われ、
来年の10月完成予定のパースが掲げられている。
この界隈の雰囲気に合いそうな、
四階建てのその物件は「1テナント貸し」とあった。
一階から四階まで全部が「大坊」、そんなことにはなるまい。
それに、あの少しくたびれた珈琲色の佇まいは、
鉄とガラスが作りだす軽快なお洒落ビルには似合わない。
それにしてもファンの多い珈琲店だった。
あと何日と気付いて、慌てて訪れた私のような人も多いと思う。
狭い階段には席を待つそんな人の列ができていた、
なんの縁もないのに、なぜか仲間内のような気がする。
みんな好きだったんだ。
*
外で味わう食事や飲み物の写真は撮らない。
美味しさや風味は、舌で覚えそれを忘れなければよい、
と、これはなんだか偏屈なやせ我慢のようでもあるが、
今回は禁を破って一枚だけ撮らせて頂いた。
あの空気感が消えてゆくと思うと、自制の気持ちも雲散霧消。
大坊の皆さま、失礼の段お許しを。
ターナー展とHBとCANSON。 [水彩画とスケッチ]
15日、冬晴れに誘われて久しぶりに屋外スケッチ。
使うのは三菱uniの「HB」、それと練り消しゴムを少々、
紙はCANSONのスケッチパッド。
場所は逗子マリーナの遊歩道、
コンクリートづくりの防波堤の向こうは相模湾。
立てばその海も視界に入ってくるが、
暖かい陽差しの降り注ぐこんな日は、
ゆっくりとベンチに腰掛けて、のんびりと描く。
ようするに立ったままで描く気力がないということ。
この四日前(11日)、滑り込みでターナー展を観る。
ほとんど抽象画ともいえるような『カラー・ビギニング』の数々、
これはやはりとても刺激的な作品群だった。
それから、黒をこんなに使うのはそれまでの絵画のタブーへの挑戦?
と思わずにいられない『平和ー水葬』などなど。
いっぽうでターナーという人はけっこう俗っぽさも併せ持っていたようで、
絵の舞台裏を知ると、ちょっと複雑な気持ちになる作品もある。
もちろん図抜けて上手いのだけれど。
(ちなみに、この会場の音声ガイドは良くなかった。
制作にまつわるエピソードを知りたい人には良いが、
肝心の作品の読み解き、これはごくごく常識的なもの。
これならNHKの日曜美術館のほうが気が利いている。)
鬱陶しいヘッドセットをそれでも500円も払ったのだからと、
俗物根性丸出しで聞きながら、
そのガイドが触れない小さなスケッチ類が気になった。
ガラスケース越し、薄暗い照明の下のスケッチブック。
例えば『ドレスデン、テブリッツ、プラハ』のスケッチは
一葉がほぼハガキ大ということもあって、ちょっと見づらいが、
どこか親しみの持てる柔らかなタッチに目を引かれる。
その落ち着いた、でもどことなく楽しげな筆致から、
一瞬、安野光雅さんの絵を思い出したり、
きわめて私的にはハガキサイズのスケッチブックが欲しくなったり。
それはさておき、それらは文字どおりのスケッチだから、
あくまでも作者の「覚え」である。
それでも、というかそれだからこそ、
その時その場にいたターナーの素直な目が感じられるような気がする。
時を経て薄茶けてしまったスケッチブックなのに、
たったいま描いてきたような感覚を覚えながらしばし眺めた。
大判の素描もある。
例えば『イーリー大聖堂:オクタゴンの内部』(78.2×59.3cm)。
幸いその素描の前は観客も少なく、
時間をかけてよくよく眺めてみると、
複雑な聖堂の内部、そのゴシック様式のディテールを、
遠近法に(たぶん)細心の注意を払いながら、
根気強く丹念に描いている。
その精度の高さは、画家にとって欠かせない基礎素養なのだ、
と、宣言しているようだ。
その先どんなタブローを目指すのか、
それはもちろんそこに見いだすテーマによって変貌する。
ほんとうの勝負はここからだ。
でも、先ずは素描がしっかりしなければその先もない、
と、強く感じる一枚だった。
トビカンを後にして、上野公園を歩きながら、
いま見たばかりのスケッチの残像を反芻する。
世に名高いターナーの名作も、もちろん収穫だったけれど、
はじめて見た素描は、気持ちの奥にストンと落ちた。
さて、今年はなにやかやと気の急くことが続き、
絵はあまり描けなかった。
そんなさなかのターナー展、
これは、とても参考、いや刺激になった。
洋の東西を問わず、名のある画家の素描やスケッチが、
並外れて上手いことはどの展覧会でも経験する。
でも、今回のターナーの素描には、
その技術の端っこにわずかに近づけるような、
そんな親しみやすさが感じられた、ほんの少しだけ。
それが、たとえ素人の思い違いや浅はかな見方であったとしても。
ターナー展の後に、このスケッチを描いたのに深い理由は無い。
でも、雑に描くことだけはやめよう、そう思ったことはたしかだ。
そして、来年はもう少し描こう、
スケッチもしっかり取り組んでみよう、
と、決意だけはしておく。
*
「ターナー展」と題しながら、一点の素描以外は載せていません。
ターナーの絵はネット上でいくらでも見られますから、
興味のある方は、どうぞ探してみてください。