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古墳を歩く。 [逗子とその周辺]

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*1

逗子と葉山の境の小高い丘に古墳があることを知ったのは、
六月に転居してから間もなくのこと。
13年ほど前に地元の考古学愛好家によって発見された長柄桜山古墳、
四世紀の築造とされる前方後円墳がほぼ完全な形で残っている。
(詳しくはwikipediaなどで)

晴れ上がった体育の日、逗子の浜辺から登ってみる。
海抜0メートルから127メートル(1号古墳の最上部)までの道は
ちょっとしたハイキング。
保存整備の事業もまだまだ途中段階なのだろう、
そこに至るまでのルートもようやく整いはじめたという感じがする。

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*2

海辺から高度を上げる途中、
木立の間からときおり相模湾がきらきらと顔を出す。
1号古墳と2号古墳をつなぐ約500メートルの尾根道からも葉山側、
ようするに東京湾方面が望めるらしい。
らしいと書いたのは、その道筋からは樹木に遮られて展望は期待できないから。
もちろん樹木の繁った森や林は丘陵を守るためにも貴重なもの、
それは重々承知の上で、
それでも、これが無ければ、さぞ見通しがきくだろうに、とつい思ってしまう。

同じことは古墳そのもについても言えることで、
1600年の時を重ねしっかりと根付いたコナラや杉・ヒノキなど
様々な木立に覆われて、その“高まり”を古墳と認識するには、
相応の観察力と想像力、それとある種の直感力も必要だろう。
事前に知っているから“古墳”と理解するけれど、
何の手がかりもなかったら、ごく普通の丘の上、と見てしまうだろう。
本格的な発見の以前から、その独特の地形は古墳ではないか?
と観察していた発見者の目はたいしたものだ。


“ 物事を丹念に研究したり、考証したりするよりも、
 周囲の景色や雰囲気を大づかみにとらえることの方に興味があった。
 平等院の場合もその例に洩れず、長年付きあっている間に、
 漠然とではあるが何かをつかんだように思う ”

白洲正子さんの『名人は危うきに遊ぶ』にある文章だが、
これはいたく同感で、絵を描きたくなるという感情も、
詰まるところ目の前の景色、雰囲気が淀みなく気持ちに入ってくるかどうかなのだ。

そんなことに思いを巡らしながら、古墳とその周囲の“景色”をぼんやりと眺める。
逗子市の整備計画によると、
いずれは一目瞭然で古墳と分かる公園風の佇まいになるらしい。
それはそれで良いだろう。
道はもっと歩きやすくなり、行き届いた説明も学習意欲を満たしてくれるはずだ。
誰でもが、これが4世紀の古墳と納得できるカタチになるのだ。

この日も1号古墳では周囲の木々の伐採が行われていた。
前方も後円も、かなりの木々が取り払われ、
そのおかげで素人目にも古墳の形が把握しやすくなっている。
こうやって整備が進めば、古墳はもっと“分かりやすく”なるはずだ。
そこから素人の研究気分や考証癖もさらに高まるかもしれない。

でも、今のままでも良いような気もする。
ある程度のきっかけをもとに乏しい想像力を働かせながら、
その場所でしばしの時を過ごす。
眼下に広がる(はずの)海の、その先を感じ、
木々を渡る風の音に耳を傾けながら、
その場に宿る何かのひとかけらを感じる、
曖昧な理解かもしれないが、そんな分かり方もあると思う。


古墳に向かう前に徳富蘆花記念公園と六代御前の墓を訪ねた。
その際、公園にあった“マムシに注意”の看板が気になっていた。
帰り際、住宅地のなかの“この先行き止まり”と書かれた先に、
徒歩ならば逗子の街へ降りる道がありそうな気配を感じる。
が、たまたま出会ったご近所さんに道の有無を訊ねると、
“ 道はあるけれど夏のあいだのヤブが深くなって歩きにくい、
 それと長いのも出る。ヤマカガシ、シマヘビ、マムシも、、、” と。
注意看板もあながち大袈裟ではないようだ。

そんなもの怖くて山道が歩けるか!と思いつつ、
明るいバス通りを歩いて街へ降りた。

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*3

写真:
*1:一号古墳、前方から後円にかけて見る。
   手前が「前方」、画面左奥のこんもりとした高まりが後円。
*2:二号古墳の前方の真上につくられた歩行用の道。
   お墓の上を歩くことになる。
*3:一号古墳に近い住宅地から逗子の海、江ノ島方面を望む。
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